結局ウクライナ危機とは何だったのか?
- 2015/7/22
世界を震撼させた事件
2014年、もっとも世界を震撼させた事件と言えば、ウクライナ危機でしょう。最新の動向は頻繁にに発表されていますが、それがなぜ起こったのか、今どのような状況にあるのか、全体像を明らかにするにはその背景を知らなければなりません。ウクライナ危機とはなんだったのでしょうか。
どのような事件だったか
ウクライナはそもそも言語的・文化的・歴史的に西部と東部に大きな違いがありました。大まかに分けると、西部はウクライナ語を話し親欧米派が多く、東部は長年ロシアに支配されていたためロシア語が話され、ロシアとの併合を望む人が多い土地でした。
ウクライナ危機の直接の発端は2013年にありました。2013年の12月、ウクライナのヤヌコヴィッチ大統領は、EUと「東方パートナーシップ首脳会議」を結ぶことを決定しました。しかしその後すぐに、ロシアの圧力に屈してこれを撤回しました。このヤヌコヴィッチ大統領の判断に親欧米派は反発しデモが過激化、政府関係の建物が占拠され、ヤヌコヴィッチは亡命、ウクライナは無政府状態になりました。無政府状態の中で親欧米派と親ロシア派の対立は深まっていきました。
そのような状況の中で2014年2月、新ロシア派はクリミア半島の議会を占拠しました。クリミア半島はもともとロシア系住民が大半を占める土地でした。親ロシア派はロシアに住民の保護を訴え、ロシアは軍事介入し、クリミアを掌握。住民投票によってロシアはクリミアを併合しました。
さらに同じくロシア系住民の多い東部ドネツク州も独立を宣言し、住民投票も行ないましたが、ロシアは併合しませんでした。ウクライナ大統領に新たに当選したポロシェンコ大統領はロシアに対して攻勢を強め、欧米もロシアを非難しました。これを受けてロシアとウクライナは停戦に合意しました。
ロシアにとっては成功?
ウクライナ、そしてクリミア半島は、冷戦時代から西陣営と東陣営の利害が衝突していた地域でした。世界経済はWTOを通じてグローバル化を進めていましたが、新興国の台頭によって順調に進まなくなり、かわりに地域主義的な自由貿易協定や経済連携協定が結ばれるようになりました。
EUも加盟国を増やし、地域内でより自由な貿易ができるように拡大路線をとっていましたが、旧東陣営であるウクライナにもEUの手が伸びたことに、ロシアは反発しました。しかし昔のように軍事介入して強制的に自国に併合することはできません。そこでロシアはなんとかしてEUの影響力を減らそうと考えました。
ロシアはドネツクに直接介入しましたが、そのまま軍事的に支配してしまうのではなく、ウクライナに対して停戦や対話を呼びかけました。そうすることで欧米との間に対立を強めることなく、親ロシア派の影響力を強めてウクライナへの欧米の力を削ぐことに成功したのです。しかしこれで全てが終わったわけではありません。これから新たな動きがある可能性もありますので、これからも注意しなければなりません。